藤原明子 (染殿后) (FUJIWARA no Akirakeiko (Somedono no kisaki))

藤原 明子(ふじわら の あきらけいこ/めいし、天長6年(829年) - 昌泰3年5月23日 (旧暦)(900年6月22日))は、藤原良房と源潔姫の娘で文徳天皇の女御。
大変な美貌の持ち主だったとされる。
清和院(通称染殿)が里邸であったため、染殿后(そめどののきさき)とよばれた。

文徳天皇が東宮であったとき、入内。
夫が即位するとまもなく女御になった。
また、その年(850年)のうちに惟仁親王(のちの清和天皇)を出産する。
惟仁親王はすぐ立太子した。
仁寿3年(853年)に従三位、天安 (日本)2年(858年)には従一位に叙せられた。
また、子の清和天皇からは「皇太后」、孫の陽成天皇からは「太皇太后」の号を贈られた。

子は、前述した清和天皇と賀茂斎院になった儀子内親王がいる。

また、貞観 (日本)7年(865年)ごろから一種のうつ病のようなものにかかっていたらしく、それらしき記述(物の怪に悩まされる)が『今昔物語集』などに見られる。

彼女は、叔母である藤原順子、従妹の藤原高子とともに良房の(ひいては藤原家の)摂関政治の礎を築いたともいえるが、自ら表に出ようとはしなかった。

72歳と当時では珍しい長命で崩御。
女御宣下を受けてからでも文徳を含め6代の天皇が交代している。

[English Translation]